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キンキュウヒナン

映画『river』の登場人物・九重達也。
3人の中で一番、ある意味少年時代に横井と接触が多かった彼。
そして3人の中で、一番最初に横井と再開した・・・。
彼は、いったい横井にどんな思いを抱いていたのか。
管理人の思い込みで、ここに記す。

*注意*
かなり長い文章になっています。
映画『river』を、これから見る人、は読まないほうが良いです。
物語のネタバレだけではなく、偏った先入観に囚われるかもしれません。
以上、御了承下さい。
御了承できなければ、申し訳ありませんがお帰り下さい。ゴメンナサイ。

 
 綿雪の降る夜、その男は現れた・・・。

 路地裏の小さな看板、そこから地下に続く階段を降りると、小さなバー「サムタイム」がある。
 バーの経営者・九重達也は、夕方この階段を降りるのが、あまり好きではなかった。夏場はまだ良かった。日の短くなる秋から冬・春先まで、暗い階段を降りるのは地獄の底に降りるような感じでイヤだった。それでも、店内の明かりを点け、入口と看板の明かりも点けると、ホッとする。・・・ここは地獄ではない、ただの地下だ、と。

 その日は、客がいなかった。
 外は綿雪が舞っている。
 しかし、地下にある店からは外の様子は解からない。

 (足が・・・傷が疼く・・・)

 九重は、足に傷みを感じていた。交通事故の古傷が、寒さと気圧に反応しているようだ。

 「こんな日は、早く店を閉めて上がろうか・・・」

 そう、呟いた時に、ドアが開いた。
 男が一人、そっと店内に滑りこむ。男の後ろの廊下には、入ってくるはずがない雪が大きく舞っているように見えた。

 「いらっしゃいませ」
 「・・・こんばんは」

 (・・・俺の見間違いか?雪が、この男の後ろに舞っているように見えた。いや、雪が舞っているというよりも、大きな翼が崩れていくような・・・)

 「・・・どうぞ」
 「ありがとう」

 男は冷えた手を、受け取ったおしぼりで温める。長い時間、外にいたのか、その男はやっと落ち着いた、と言う表情だった。
 そして、九重を見つめ、穏やかに微笑んだ。

 「この店、なんだか落ちつくね。いつ頃からやってるの?」

 その男は親しげに九重に話しかける。

 (初めて来た客、だよな。もしかしたら昔の会社の同僚か何かか?)

 九重は昔、スキージャンプの選手で、大手企業に所属していた。だが、交通事故で選手生命を経たれ、退職した。当時、企業の関係者全員が九重を知っていたが、九重は関係者全員を知る事は無かった。

 九重は、とりあえず愛想笑いを浮かべ答える。

 「3年くらい前です」
 「そう、もっと早く来れば良かった」
 「・・・御注文は?」
 「そうだなあ・・・君の好きなお酒は何?それを貰おうかな。そうだ、君も飲みなよ」

 やけに親しげな話し方に、九重は戸惑う。

 「あ、ありがとうございます。あの・・・お客さん、俺のことを」
 「お客さんだなんて、他人行儀だね、九重君」

 名前を呼ばれ、はっとする。この話し方、どこかで覚えがあった。
 九重は、ちょっと驚いた表情のまま、男を見つめた。
 男は、また、穏やかに微笑む。その微笑みは一見優しく、だがどこか冷たく、そしてどこか寂しげに見える。

 「思い出してよ、九重君」

 男はどう見てもサラリーマン。身だしなみは、こざっぱりとして清潔な印象。疲れたサラリーマンではない。普段は高い所から見下ろしている立場の人間・・・。この地下には似つかわしくない。九重は、自分とは住んでいる世界がまったく違うと感じた。

 男は、右手で頬杖をついた。濃い色のスーツの袖から青いYシャツの袖が見えた。九重は、青いシャツの袖口から傷が見えたような気がした。

 (傷?青いシャツに、傷・・・。まさか・・・)

 「もしかして・・・、横井、か?」
 「やっと、思い出した?」

 にこやかに笑う男に、九重は驚いたままの表情が一瞬凍りつく。
 男は、横井茂。
 遠い、遠い昔、子供の頃ほんの数ヵ月、同じクラスだった。

 (何故?何故、横井がここに・・・、いや、何故、そんな風に微笑む事ができる?)

 「偶然、ここに入ってみて良かったよ、九重君に会えた。君も僕を覚えていた。嬉しいよ」
 「ああ・・・」

 九重は返答に困る。それを誤魔化すように、酒を用意する。

 「お待たせしました」
 「ありがとう」

 (俺は・・・ずっとお前の事は忘れていた。いや、忘れようと、無理に忘れようとしていた。思い出さないようにしていた。だが、何故、今、現れる?俺に会えて嬉しいって?)

 九重は数日前の新聞記事を思い出した。医療ミスでの死亡記事。死んだのは熊沢、小学校時代の同級生。・・・熊沢は一時期、九重に酷いイジメをしていた。そして横井も、イジメの被害者だった。
 その記事を読んで、九重は思い出したくない事を思い出し、ここ数日、重い気分だった。

 横井は、そんな九重の気持ちを見透かした様に、その新聞記事の事を話し始めた。
 人間なんて、いつどんな風に死んでしまうか解からない。きっと偶然の積み重ねで死ぬ事も助かる事もある。そんな話しを、横井は取り留めなく話した。

 (熊沢が死んだのは、たまたま悪い偶然が重なったのか?横井がここに来たのは、これも偶然なのか?熊沢が死んで横井がここに来た・・・本当に偶然か?偶然でなければ何故、横井はここに来た?)

 九重の思考を遮る様に、横井が話を続ける。

 「他のみんなは、どうしてるのかなあ・・・」
 「みんな?」
 「そう、佐々木君とか、藤沢君とか」
 「さあ・・・あの街を出てからは、連絡とってないから」
 「そう・・・」
 「…横井は、なんだか立派になったな」
 「普通のサラリーマンだよ」
 「いや、俺は職業柄、なんとなく解かるんだ。どんな職業でどんな立場かってさ。お前、どこか大きな企業の、けっこう高い地位にいる。そうだな、お前より年上のヤツより役職が上、違うか?」
 「そんなに大きな会社じゃないけどね。だいたいあってるよ。すごい観察力だね、九重君」

 「いや、別にすごくないさ」

 会話が途切れる。九重は気まずさを感じる。が、横井は相変わらず、穏やかに微笑みながら九重を見つめていた。何か言いたげな瞳に、九重は目をそらす。

 (そんな風に、見ないでくれ、横井。俺は、俺は今更、何も言うつもりはない。あれは仕方がなかった事だ。そんな風に、友達のように振舞われると、俺は、俺は・・・)

 九重は、横井の左手に指輪を見つけた。

 (結婚指輪?結婚してるのか・・・そうか、もうそんな年齢か)

 「お前、結婚してたんだ」
 「ああ。4年前にね」
 「4年前・・・」
 「あ、ごめん。君が交通事故に逢ったのもそれくらいだったね。思い出させてごめん」
 「いや・・・」

 4年前の夜、九重は横断歩道を横断中、信号無視の自動車に撥ねられた。車はそのまま逃走。轢き逃げ犯は今も捕まっていない。
 もしも、運転手がきちんと信号と歩行者を見ていたら、事故なんて起きなかった。
 もしも、運転手が急ブレーキをかけるのが遅かったら、九重は死んでいたかもしれない。

 「横井、お前、俺の事故の事、いつだったかよく覚えているな」
 「ちょうど結婚準備中に、テレビで知ったんだ。新聞でも読んだよ、悲劇のヒーローだって書かれていた」
 「悲劇のヒーローも、世間から、もう忘れ去られたよ」
 「俺は・・・何年経っても忘れないよ。・・・だって、友達だろう?」

 そう言う横井の笑顔に、九重は、また、凍りつく。

 友達だろう、ともだちだろう、トモダチダロウ、トモダチ・・・

 (そうだ、あの時も、似たような事を、言われたんだ)



 小学校5年の頃・・・。

 「なあ、俺達、友達だよなあ?ええ?そうだろ。九重」
 「でさ、ちょっとさ、たのまれてくれない?」
 「持ってきて欲しいんだよ。わかってるだろ?」
 「知ってるんだよ、良いのが出たんだろ?ガシャポン」
 「それをさ、ちょっと貸せよ。くれって言ってるんじゃない」
 「友達だから、良いよな。ついでにその軍資金もさ、ちょっと貸しな」

 九重は熊沢達に、絡まれていた。誰も助けてくれない。先生なんてあてにならない。

 「友達」「プロレスごっこ」「じゃれていました」熊沢達の言い訳は見事だった。

 ちょっとでも逆らえば酷い目にあう。
 逆らえなかった。
 誰も、誰も助けてくれない。

 「友達だよなあ」

 熊沢の言葉を、九重は否定できず、言いなりになるしかなかった。



 「九重君?」
 「あ、いや、ごめん、ちょっと・・・」
 「・・・痛むんだね、傷が」
 「え?」

 心を見透かされたのか?と九重は内心ドキッとした。横井は心配そうに九重の顔をのぞきこんだ。

 「解かるよ。こんな日は、古傷が痛む」
 「・・・」

 九重は何も答えず、目をそらす。

 (何を言いたいんだ?俺を責めているのか?あれは仕方がないことだ、誰だってそうだ。誰だってそうに決まってる。そう、緊急避難、緊急避難だったんだ。確か、刑法では自分に身の危険が及んだ時は、それを回避する為に他者に危害が及んでも他者に危害を加えてしまっても罪にならない罰せられないはず。俺は、何も悪くない。悪いのは、悪いのは・・・)

 横井は、なんとも言えない表情で微笑んだ。

 「足の傷、痛むんだろう?こんな天気の日は痛むんだね。ごめん、長居しちゃったよ」

 意外な言葉に、九重はまた驚きながら、だがしかし、ホッとしていた。

 「いや、そんなことは・・・」
 「俺、もう帰るよ」
 「・・・そうか、悪いな、気を使わせて」
 「いいよ、また来るよ」
 「・・・ああ」
 「じゃあ、また」
 「じゃあ・・・」

 横井の後ろ姿を見送る。ドアの向こうの暗闇にゆっくりと馴染んで消える。九重はそれをぼんやりと見ていた。

 「友達だろうって・・・友達だろうってなんだ?友達って・・・」

 九重は、店の看板と入口の明かりを消し、横井の座っていた席の隣りに腰掛けた。
 カウンターに何か乗っている。
 几帳面に折りたたまれた紙幣とメモ。

 『このラム酒、気に入ったよ。今度、ボトル入れるよ。そして、このラム酒の歴史を聞かせてあげよう』

 「あいつ、いつの間にこんな物を・・・」

 横井がまた来るのか。また来るのか。来るのか・・・。その時、横井の言う『友達だろう?』の真意が解かるのだろうか?そう考えながら、九重は古傷の痛みを忘れ、メモを見つめていた。


 あれ以来、横井は時々サムタイムに現れた。
 酔って暴れる事もなければ、ツケを踏み倒す事もない。いや、彼はツケなどしない。
 どちらかと言えば、紳士的な、良いお客だった。

 (これが横井の言う『友達だろう?』なのか・・・、熊沢とは違う、横井はヤツとは違う、この静かな関係、これが、これが横井の言う・・・)

 「と、言うわけ。解かった?九重君」
 「なんとなく・・・」
 「なんとなくって何だよ、なんとなくって」
 「いや、その・・・って、このラム酒の歴史にずいぶんこだわるんだな」
 「歴史はね、正しく覚えなくちゃ」
 「今更、歴史の勉強したって・・・」
 「そのうち、役に立つよ。きっとね」
 「はいはい。わかりました」
 「歴史といえば、日本の歴史だけど・・・」
 「また勉強ですか?」
 「偏った意見かもしれないけど、日本の歴史は臭い物に蓋をするように、その時その時の支配者が自分の都合の良い様に記録を書き換えさせてたって説があるんだ」
 「え?」
 「戦は勝った方が正義になるんだよ」
 「じゃあ、日本史の教科書は・・・」
 「やだな、そう言ってる歴史研究者もいて、俺は、それもそうかもしれないって思ってるだけ」
 「ああ〜だめだ。俺には難しい、何が正しい歴史か解からなくなるって」
 「まず、教科書通りに覚えて、いろんな説を読んで考えると楽しいよ」
 「楽しいか?」
 「ああ、考えに集中してる間、わずらわしい事も忘れるしね」

 横井はいつも穏やかだった。九重は横井の穏やかな物腰から、心地よさと同時に何か不安を感じていた。落ちぶれた自分と比べ横井は大手企業のエリート、いやでも劣等感を感じた。横井はこの先の人生も補償されているのだろうか?俺はこのまま地下の暮らしが続くのだろうか?と。

 「そうだ、九重君は新聞は何を読んでるの?」

 また、横井は前触れなく、九重をドキッとさせる。
 いつ、どの新聞だっただろう、と九重は考えた。
 また、いやな記事があったのだ。

 「新聞はとってないけど、こういう仕事だからな、なるべく毎日読んでるよ」
 「へえ、図書館とか?」
 「いろいろな所でな」
 「ふうん、じゃあ、俺が何を言いたいか解かってる?」

 笑顔の消えた横井の目が九重を捉える。
 九重は、試すような視線に耐えられず、目をそらした。

 「さあ、見当もつかないな。なんだよ」
 「本当は解かってるんだろ、九重、くん」
 「・・・・・・」
 「死亡交通事故だよ。事故日は違うけど、林田君、そして金沢君が死んだ」
 「居眠り運転だろ」
 「やっぱり、解かってたじゃない」
 「・・・・・・」
 「二人とも睡眠薬を飲んでたって書いてあった。変な話だよね?」
 「うっかりして間違えたんじゃないか?」
 「そうかな?」
 「そうだよ」

 横井は、何か言いたげな眼差しで見つめる。

 (熊沢、林田、金沢・・・3人とも俺を虐めてたヤツらだけど、死んで良かったなんて俺は思っていない。もう関係ないヤツらだ。なぜ、そんな目で見る。まさか、まさか横井、お前・・・俺を疑っているのか?確かに俺はヤツらに虐められ、ヤツらに言われるままお前に危害を・・・。お前が転校していった後も俺は虐められていた・・・。でも、でも、殺したいなんて思っていない。死んで欲しいなんて・・・。だってお前が転校した後、俺はスキージャンプでそこそこの成績を出し始め注目を浴びるようになり熊沢達も次第に離れて行った。ああ、でも、思ったか、あいつらさえ居なければって。だけど今はそんな事・・・)

 「熊沢君は点滴を間違えられた。林田君、金沢君は睡眠薬を飲んだ」
 「だから?」
 「不可解だね、仲の良かった三人組がいっぺんに死んだ」
 「偶然だろう、前にお前が言っただろう?悪い偶然が重なっていったんだ」
 「悪い偶然か」
 「そう」
 「俺達には、どんな運命が、どんな悪い偶然が、不幸が待っているんだろう・・・」
 「俺は、一度地獄の底に落ちた。それ以上の不幸なんて滅多にないさ」
 「じゃあ、俺は、地位と名誉がそこそこある幸せ者だから、いくらでも不幸になれるか」
 「横井・・・」
 「冗談だよ」

 (なんだろう、何かが引っかかる。熊沢が点滴を間違えられたのは誰かの仕業か?林田・金沢は熊沢の後を追った自殺なのか?それとも二人が熊沢を?違う、何かが違う・・・点滴、睡眠薬・・・薬。薬?・・・横井は確か大手製薬会社のエリート・・・なんだ?この符号はなんなんだ?)

 九重は、真っ直ぐ横井を見つめ返した。
 横井は笑わない。真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ、いつでもなんでも聞きたい事を訊いてくれ、と言っているような目で見返している。

 「横井・・・」
 「何?」

 九重は言葉に詰まった。

 (俺は、試されているのか?お前に試されているのか?わざと疑う様に仕向けてるのか?)

 「いや、なんでもない」
 「何だよ、言えよ」
 「いや、いいんだ」
 「・・・そう」

 (もし、本当に横井が仕組んだ事だったら、三人が死んで終りなのか?それとも、俺は熊沢側として、4人目になるのか?ダメだ、疑っちゃダメだ。疑ったら、本当に俺は熊沢側の人間にされるかもしれない)

 そんな思いがよぎり、九重は何も言えなかった。そして、無理やり記憶の隅から、横井との楽しかった頃を、熊沢達から助けてくれた横井を、思い出した。
 九重は、横井を疑うのが怖かった。

 横井は、少しうつむき加減でグラスに手を伸ばす。袖を捲くった腕には、くっきりと残る傷跡。グラスを空けた横井は、ゆっくりと視線を上げ、いつものように穏やかに微笑む。

 「なんだか今日は、難しい話ばかりしちゃったみたいだ」
 「そうかもしれないな」

 九重も苦笑して見返す。九重は、横井の笑顔が何故か寂しげに見えた。


 すっかり横井はサムタイムの常連になっていた。
 横井は他の客も連れてきた。同じ職場の人間だという。
 その小杉という男は、横井と年齢は同じ位に見えるが、立場は横井の方が上だな、と九重は思った。
 そしてもう一人、常連とは言いがたい男が、たびたび来るようになった。
 右上腕部に刺青のある男だ。
 その刺青を見るたびに、九重は、横井が腕を怪我した時を思い出す。



 林田の給食費の袋がなくなった。誰か知らないか?と先生は言った。九重は、知っていたが何も言わなかった。九重は、給食費の袋を持ち去る人物を見ていたのだ。
 後から、熊沢達は横井を呼び出した。九重も一緒に呼ばれた。熊沢達は横井を給食費泥棒だと疑っていた。いや、違う、給食費紛失事件を横井を虐める口実にした。

 「お前がやったんだろう?」
 「違う!」
 「お前しかいない!」

 熊沢が、九重に顎で指示する。「横井を殴れ」と。

 (違う、給食費を盗んだのは横井じゃない、盗んだのは・・・ダメだ、そんなこと言ったら、今度は給食費泥棒が俺を虐めるかもしれない。横井はそいつの仲間扱いされるかもしれない。どっちにしても、横井は殴られて虐められるんだ・・・。俺は、俺はどうしたらいいんだ、俺は虐められたくない・・・)

 どうしていいか解からなくなった九重は、横井を突き飛ばしていた。
 熊沢が横井を殴る、押さえつける、蹴る・・・。九重はそれを黙って見ていた。いや、九重も言われるまま殴ったかもしれない。忘れようとしている九重の記憶は部分的に混沌としていた。それでもハッキリと残る記憶・・・横井の手首から肘にかけて前腕が切れて血が出ていた。その赤い血と、青いシャツが、九重の目に焼きついた・・・。

 (俺は、俺は悪くない。悪いのは熊沢達で、給食費泥棒で・・・。俺は悪くない!)



 刺青の男・権藤は、いつも横井と小杉が来ている時に現れる。ほとんど酒を飲まず帰る事が多い。酒を飲みに来ているわけではないのだ。横井と小杉に用があるのだ。
 他の客がいない時は、まったく飲まず、用件だけ済まして帰る事もある。
 他に客がいれば、二人の横に座り、九重といつくか言葉を交わす。
 マスターと話す普通の客のように振舞いながら、二人から何かを受け取っていた。
 それを、九重は見て見ぬ振りをしていた。

 その日は、店内にいるのは九重と横井だけだった。
 小杉も来ていたが、権藤と取引が終ってすぐに帰っていた。
 二人きりになるのは久しぶりだった。

 (こんな風に、二人だけの時に、横井は俺に謎をかける。今日も何か言い出すのだろうか・・・)

 しばらくの間、横井は何も言わなかった。ただ、穏やかな顔で酒を飲んでいた。
 九重は多少不安はあったが、気まずさは感じなかった。
 同じ場所にいながら違う事を考える二人・・・。

 九重は、わずかに足を引きずりながら店内を歩く。
 横井がそれをじっと見ている。何か言いたげな目で。

 「何?横井。言いたいことがありそうだけど」
 「うん・・・」
 「珍しいな、お前が言い難そうにするなんて」
 「九重君、その足の事だけど・・・」
 「別に痛くはないよ、動かし難いだけで」
 「・・・でも、ちゃんと普通に歩きたいんだよね」
 「これ以上はダメみたいだ。だいぶリハビリしたんだけどな」

 横井が寂しそうに微笑む。

 「ねえ、九重君。轢き逃げ犯は捕まっていないんでしょう?」
 「もう、捕まらないだろう」
 「もし、その轢き逃げ犯が、俺だったらどうする?」
 「な・・・」

 (俺を撥ねたのが横井!?まさか、そんな)

 横井が寂しそうに、そして、試す様に微笑んでいる。

 (・・・だめだ、疑っちゃダメだ。横井を、疑ってはいけない。どれもこれも不幸な偶然のはずだ)

 「横井、お前はそんな事して、平気な顔でここに来てるって言うのか?」
 「もし、そうだったら、どうする?」
 「からかうなよ。人が悪いぜ」
 「もし、本当にそうだったら?」
 「・・・わからない。俺は・・・」
 「ここから追い出す?殴る?同じ目に合わす?それとも・・・俺を殺す?」

 (横井は何を言っているんだ?俺に何を言って欲しいんだ?)

 「・・・きっと、どうする事も出来ない」

 横井は、まるで悪戯が成功した子供のような、無邪気な笑顔になった。

 「横井?」
 「冗談だよ。冗談」

 (冗談だって?なんて心臓に悪い事を言うんだ?横井はこんなやつだっただろうか。いや、俺は横井の事をよく知らない。もし、これが冗談でなかったら・・・。俺はどうしただろう?俺は、・・・ここから逃げ出したかもしれない)

 「・・・はぁ、冗談きつすぎる!」
 「ごめんごめん。冗談はさて置き・・・君、今も体を鍛えてるんでしょう?」
 「・・・可笑しいか?足を引きずってるのにって、言う気か?」
 「足、治したいんでしょう?体を鍛えてるのも、その為・・・」
 「無理だって言うんだろう」
 「俺が、製薬会社の人間だって知ってるでしょう?」
 「まさか、薬があるなんて言わないだろう?あったらとっくに病院で・・・」
 「薬だけに詳しいわけじゃない。病院だって医者だって、いろいろと、つて、がある」
 「本当か?」
 「これは冗談じゃない。本当だ。君が本気なら、ちょっと調べて見ようか?」
 「ああ、頼むよ!」

 横井の言葉は、九重を一喜一憂させる。

 「俺の方もさ、君に協力してもらう時が来るかもしれないから」
 「え?」
 「その時は頼むよ」
 「俺に出来る事なら」
 「ありがとう。やっぱり君は、友達だね」
 「・・・こっちこそ、ありがとう」

 (横井が俺に頼む事?なんだそれは?それは横井に出来なくて、俺に出来る事なのか?横井が俺を頼っているのか?横井に出来ないことがあるのか?)

 横井は、九重の為に病院や医者を調べてくれると言った。
 横井は、俺が轢き逃げ犯だったらどうする?と言った。
 横井は、やっぱり君は友達だね、と言った。
 横井は、子供の様に無邪気に笑った。
 横井は、寂しそうに笑った。
 横井は、試す様に笑った。

 九重は横井が解からなくなった。それとも、最初から解かっていなかったのか。

 横井を疑いたくない。疑うのが怖い。
 九重は彼を信じたわけではない。どこか信じきれない。でも疑いたくない。
 何故、疑いたくないのか、何故、疑うのが怖いのか、九重は解からなかった。

 疑うと当時に、自分の非も認める事になる。

 それが怖くて、無意識に、九重は横井を疑うことを拒んでいた。
 子供の頃、横井を助けなかった事、横井に危害を加えた事、熊沢の言いなりだった事、熊沢に逆らえなかった事・・・。すべてが、しかたがなかった事で自分は悪くない。自分は悪くない・・・。
 自分にも非があると認めてしまうのが怖かった。
 何もかも、誰かのせいに何かのせいにして、心を保って生きて来た。

 横井を疑うという事は、
 横井が仕返しをしようとしている、と疑うという事は、
 仕返しをされるような事を、自分がしたと認める事。
 あの時の事を、自分も悪かったと、九重は認めたくなかった。


 春、深い霧に覆われた日・・・。

 いつもの様に、横井と小杉がカウンターに座っていた。
 権藤が遅れて来る。
 いつもの様に取引をしていく。
 権藤が帰る。

 二人は薬を売っていた。小杉は「新種だ」と言った。かなり飛べる、とも言った。このエリート二人は裏でこんな事をして金を稼いでいる。表では優秀なエリート。いつもの事だが、九重は嫌味の一つも言ってやりたい衝動に駆られた。

 「製薬会社のエリートさん達のやる事とは思えないけど」

 そんな嫌味も、二人にはまったく効かず、反対に言い包められる。

 病める人々をほんの少しの間でも現実を忘れさせてあげる、
 そんなような事を言われる。
 九重は、自分のように落ちぶれ病める者が薬漬けになる姿を想像した。
 その想像を振り払う様に、横井に問う。

 例の話だけど、と問うが、横井は惚ける。足の手術だよ、と言って、やっと、ああ、と返事が戻る。
 たいした事ではない様に、横井は話す。
 アメリカの専門医を紹介してもらう様に頼んだと、そして莫大な費用がかかると、費用の話で落胆しかかる九重に横井は、こう言って微笑む。

 「気にするな、友達だろう」

 その笑顔は、九重が今までに見たことがない表情だった。
 信じるも疑うもない、逆らえない笑顔・・・。

 間髪入れずに、二人は九重に頼みがあると言い出す。
 それは、とんでもない依頼だった。

 「ちょっと待ってくれ、それは・・・」
 「何も問題ないよ。君が計画通りにしてくれれば。ね、小杉君」
 「ええ」
 「ま、待ってくれ、俺はこの通り、足が・・・」
 「大丈夫、九重君一人に頼むわけじゃないから」
 「ちゃんと、仲間を用意する」
 「仲間?」

 横井と小杉は、九重にある物を盗んで欲しいと持ちかけた。一人では到底無理な計画・・・。二人は、九重に仲間を用意するという。

 「まさか、その仲間って、いつものあの男じゃないだろうな?」
 「ああ、彼?」
 「残念だが、彼はダメだ」
 「ダメ?」
 「うん、彼もいろいろ忙しいから」
 「もっと、君がよく知っている人間だ」

 刺青の男・権藤は忙しい、と聞き、九重は嫌な想像をした。
 まだ記憶に新しい通り魔殺人事件の指名手配犯の特徴は右上腕部の刺青。

 (まさか、あの男が?・・・ダメだ、考えちゃいけない、考えちゃダメだ・・・)

 「九重君、豊陵小・同窓会の案内状を見せてくれたでしょう?」
 「ああ」
 「返事、まだだよね」
 「どうせ出る気はないし、店もあるし、返事もしないつもり・・・」
 「出席の電話連絡、しておいてよ」
 「え?どうして・・・」
 「俺が代理で出席する」
 「俺に成りすますのは無理だろう?」
 「違うよ、僕は君の名前は語らない。誰かって訊かれたら、九重君が出られなくなったので、代わりに出席させてもらった。という事にする」
 「それで?」
 「連れてくるよ、仲間を」
 「まさか・・・」
 「そう、佐々木君と藤沢君。出席の連絡ついでに、二人が出席するかどうかも確認しておいてよ。来ないのなら違う方法を考える」
 「この計画を説明して連れて来るのか?」
 「いいや、説明はしない。俺が説明するのは九重君にだけ。彼らはただ連れて来て、頃合を見て、小杉君が依頼をする。もちろん、すべては話さないさ。半分騙すってとこかな」
 「騙す?騙すって何をどう騙すんだ?」
 「・・・九重君は友達だから、教えてあげなくちゃいけないね」

 (俺は友達で、佐々木と藤沢は違うから騙すのか?)

 「細かい計画は後で立てるとして・・・、4人がここで再会する、上手く話を『過去をすべて忘れられたら良い』という方向に持っていく。そこで、俺達4人とは見ず知らずの他人という設定の小杉君が計画を持ちかける。過去を忘れる薬がある、盗み出さないか、盗んでくれたら、高額の報酬と薬の一部を渡す、とね」
 「無理だろう?」
 「無理じゃないさ。佐々木君も藤沢君も忘れたい過去がある。過去だけじゃなく今現在でも忘れたい重い現実がある。君と同じようにね」
 「今現在の忘れたい事?あいつらに、そんなことがあるなんて・・・」
 「大事な事を依頼するんだ。それくらい調べなきゃ」
 「それで、上手く話に乗ってこなかったら?」
 「乗ってもらわないと困る、薬も手に入らないし、君の手術も・・・」
 「解かったよ・・・、で、どうやって盗むんだ?お前も一緒に?」
 「残念ながらそれは出来ない。勤務時間外でも、所在をハッキリさせて置かないといけない立場でね。まあ、詳しい計画は後で知らせるよ」
 「ああ・・・」

 横井は笑顔で店を出て行く。
 小杉は無表情のまま店を出て行く。
 九重は引きつった笑顔で二人を見送る。
 九重は横井の背中に崩れる白い翼を幻視した。

 九重は、一人考える。
 過去を忘れる薬・・・。本当にそんな物があるのか?
 存在してはいけない薬・・・。それを盗み出せというのか?
 横井は、その薬を盗ませる「仲間」の現在の状況を調べている?
 盗んでも通報されない闇の薬。横井は、その薬で何をするのだろう?

 足を引きずりながらグラスを片付ける。

 (ああ、この不自由な足が、横井の望む通りにすれば手術をして治るのか?過去を消す薬を横井がどう使うのかは知らない。自分で使うのか、売るのか。売るのかもしれないな、それはきっと多額の収入になるだろう。・・・俺にも忘れられない過去を消せと言うのだろうか・・・。横井もまた過去を消すのだろうか。平気な顔で俺に微笑む横井も、やはりあの時の事を忘れたいのか?)


 同窓会の日から翌日にかけて・・・。

 サムタイムでは、小杉が一人、無表情で飲んでいた。
 九重は落ちつかない面持ちで、横井が来るのを待っていた。
 事前に細かい打ち合せは済んでいた。何も心配は要らないと横井は言った。そう、何もかも計画通りにすれば良い。不測の事態が起きても横井が上手くやると言った。

 (過去を消す薬、違うな、過去を操作する薬と言ったな。自分に必要のない不都合な記憶を消してしまう薬)

 そしてとうとう、横井が二人を連れてきた。

 ・・・。

 横井の言葉通り、九重は多少ヒヤッとしたが、ほぼ計画通りに事が運んだ。
 翌日、詳しい依頼を聞く為に4人集まったが、横井に入った『偽の電話』で横井が帰り、実行メンバーが3人になった。

 すべて、横井の計画通りだった。

 (このまま、上手く行くのだろうか?上手く行かなかったら・・・俺達がもし捕まったら、警察に突き出されるのか?いや、存在してはいけない薬だ、もしかして口封じに殺されるか?いや、まて、口止めされるのか?それも全部、横井が上手くやってくれるのだろうか・・・)


 決行日。

 九重は緊張していた。
 いくら『盗まれても通報できない物』を盗むとしても、泥棒は泥棒だ。
 それに、3人で依頼を引き受けて間もなく、佐々木が探りを入れてきた。
 九重はビクビクしたが、横井を疑い裏切る方が、もっと恐ろしかった。

 順調に計画通り、製薬会社に入り込む。
 工場の作業着で、堂々と、足早に歩く。
 工場内の地図は、頭に叩き込んである。
 誰にも咎められず、薬品保管庫に着く。
 鍵を開けるキーワードを、藤沢が入力。
 目的の薬品が入った小さな扉が、開く。

 中身を確認し、取り出す。
 そして保管庫を出た瞬間、警報音が鳴り響く。

 (くそっ、藤沢のヤツ、操作を誤ったのか!?それとも、横井のヤツが不完全な計画を・・・いいや、違う、俺達をここで落としいれるはずがない!ここは、ここは、ヤツの職場だ!)

 九重は、その後、無我夢中でよく覚えていない。ただ、逃げるだけだった。そう、佐々木が比較的落ちついていたので、ついて行ったような気がする。実際、佐々木は落ちついていたというより、客観的にどうすれば工場から出られるか判断できていた。

 脱出可能な扉にたどり着く。
 資材搬入用の2階の扉、地面まで数メートルある。
 外壁についているハシゴを降りる。
 工場の裏手のマンホールを開ける。

 マンホールの中を逃げる3人。
 九重は薬の入ったアタッシュケースは、何があっても自分で運ぼうとしていた。
 数日前、計画の最終項目が変更になったからだ。
 九重に知らせがきたのは数日前だが、もしかして最初からそのつもりだったのかもしれない、と九重は思った。

 (計画が、いつ変わったのかなんて、俺にはどうでも良い。俺は、ただ、横井の計画通りにするだけ、計画通りにしなくてはいけない)

 突然、藤沢が立ち止まる。
 藤沢は、急に怖くなったのか、怖気づいたのか、やばい事をしたと言い出した。

 「なんとか誤魔化せないかな、間違って入ったとか・・・」

 九重は無性に腹が立った。

 「今更、何を!」

 (藤沢は、今更何を言ってるんだ?言い逃れできると思っているのか?のこのこ戻って行って薬を付き返しながら拾ったとか間違ったとか通用すると思っているのか?給食費を盗んだ時なんて、自分に疑いがかからないから名乗り出なかったくせに!今は名乗り出ると言うのか!自分の保身が優先なのか?あの時の、あの時の、俺と横井の気持ちが解かるか!?今、出ていったら、俺の手術はどうなるんだ!俺はどうなるんだ!!)

 気が付いた時は、九重は藤沢に殴りかかっていた。
 それを佐々木が止める。

 (なんだよ!お前は!俺の事は止められるのか!佐々木、お前は藤沢の事は助けるのか!あの時、俺達が虐められても、誰の事も止めず、誰の事も助けなかったくせに!!お前は、直接自分に被害がありそうな時だけ動くのか!?)

 三人がもつれ、倒れこむ。
 しばらく放心する3人。
 少し落ちついたところで、「行くぞ!」と、気を取り直して走り出す。

 明かりが見える。その外にあるものは、あらかじめ用意してあったワゴン車と、工事中の看板と開いたマンホール。それが出口だった。
 急いで車に乗り込む。着替えるのは発進してからだ。
 工場が遠ざかる。誰も追ってくる様子はない。
 緊張が緩む車内。だが、藤沢はほとんど喋らなかった・・・。

 待ち合わせ場所まで、かなり距離があった。場所は廃校になった豊陵小学校。そこで待っているのが小杉ではなく横井だ、と知っているのは九重だけだった。

 途中で休憩を取り、小用を済ます九重と佐々木。
 佐々木が、抑揚のない声で話し始める。横井の罠だと佐々木は言う。九重はどう誤魔化そうか必死に考える。自分も疑われているのかと佐々木を見返した。

 (また、何か探りを入れられた時は、事実をほんの少し混ぜて嘘をつくようにしろ。そうだ、横井はそう言った・・・)

 なんとか、自分は何も知らない無関係の様に装い、返答した。そして一つだけ事実を入れて返答する。見るからに過去を消したい男だもな俺は、と。
 佐々木は罠だと思いながらも計画に参加した事を告げる。
 大丈夫、俺の事は疑っていない・・・。九重は胸を撫で下ろした。

 車に戻ろうとする九重。佐々木が電話をする。九重は電話の内容に耳をそばだてながら車内を覗った。

 !?

 電話を盗み聞きするどころではない。
 藤沢が居なくなっていた。

 慌てて佐々木のところへ行く。もう電話は終っていた。二人で辺りを探したが藤沢は居なかった・・・。肝心なところで藤沢は逃げたのだ。

 (そうだ、あいつは、いつもいつもこうだ!)

 幸いなことに、薬の入ったアタッシュケースは無事だった。中身も確かめる。大丈夫だ。九重はホッとしながら残されている上着をつかんだ。

 (これは・・・あいつの上着じゃないか?佐々木のジャケットは??あいつ、また、パクリやがって!)

 佐々木は時間が無い、と言い、運転席に乗り込もうとした。ジャケットのことは慌てて間違えたと思ったようだ。だが、九重は違うと思った。

 (あいつは、肝心な時に逃げやがって!都合が悪くなると、こうやって逃げるのかよ。給食費の時だってそうだ、盗んでおいて、横井が疑われて、それでも名乗りでないで・・・あいつはいつだって逃げてるんだ!)

 車が発進する。
 佐々木は、藤沢が逃げた事も、藤沢が給食費泥棒の真犯人だったと知っても、別に気に留めていないようだった。その上、佐々木はイジメになんか興味が無かったと言い放つ。九重はやりきれない気持ちになる。

 (興味が無いって、どう言う意味だよ!見て見ぬ振りをしておいて興味が無いって!?違うだろう?興味があったんだよ、お前は、お前達は、俺が虐められるのを見て自分が巻き添えにならない方法を考えたら『見て見ぬ振り』になったんだだろう?興味が無かったなんて言い方はやめてくれ!)

 佐々木は、横井の事はどうしようもなかったと言う。九重は、それだけは同感だった。

 (横井の事は、どうしようもなかったんだ。しかたがなかったんだ・・・。だが、横井は唯一、俺の事を助けようとしたんだ・・・。熊沢達さえ居なければ、俺達は・・・)

 結局、九重は『熊沢達さえ居なければ』と思ってしまう。誰かのせいにしてしまう。
 九重は、佐々木の口調が気に障っていた。「興味がなかった」「どうしようもなかった」と言う言葉に、あまり感情を感じなかったからだ。

 (マンホール内の事といい、逃げた事といい藤沢には本当に薬を渡す気が無くなる。佐々木だって同じだ。自分が巻き添えになりそうな時だけ手を出して、後の事は無視だ。・・・こいつにも薬は渡したくない。横井の言う通り、こいつらに薬は渡たしたくない・・・)

 計画の最終項目の変更、それは、『佐々木と藤沢に薬は渡さない』だった。

 そして、やっと、豊陵小学校に到着。
 雑草に覆われたグランドに車を乗り入れる。
 蔦が這い、朽ちかけている校舎は、巨大な霊廟に見える。
 車を下りる二人。もちろんアタッシュケースは九重がしっかりと握っている。

 校舎に向かい歩く。車と校舎のちょうど中間くらいまで歩く。
 二人を待っていたかのように、突然、九重には聞きなれない音が響いた。

 (・・・銃声か?)

 九重がそう思うより早く、佐々木が反射的に校舎へ駆けて行く。
 九重もそれにならい反射的に、佐々木とは反対方向・車の方に足を引きずりながら走る。

 (横井なのか?横井が何を仕掛けているんだ?)

 九重が受けた最終指示は『アタッシュケースを離すな』だった。
 横井がどうやって、二人に薬を渡さずに済ますのか、聞いていなかった。
 聞くのが怖かったのかも知れない。
 考えるのが怖かったのかもしれない・・・。

 (佐々木は校舎の中に逃げたのか?それとも、横井を探しに行ったのか?横井はどうするつもりなんだ?あれは本当に銃声なのか?だとしたら・・・)

 九重は車に辿り着き、運転席のドアを開けようとした。
 ドアのガラスに自分の姿と、もう一人、人影が映る・・・。
 無表情の横井がいる。
 九重の動きが止まる。
 平静を装い振り返る。

 (俺は、別に逃げようとしたわけじゃ・・・)

 さっき聞いたばかりの音が響く。
 その音を発した物を横井が右手に持っている。
 硝煙が立ち昇るそれは、拳銃だった。

 横井は、笑っていた。

 心底、楽しそうに。

 無邪気に。

 だが、次第にその目は狂気に満ち、狂喜の笑顔と化す。

 「ごめん、手が滑っちゃった」

 横井は、まるで子供の様に、そう言う。

 「お前の言う通りにやっただろう」

 九重の悲痛な声に耳も貸さず、横井は、ただ、微笑みながら引き金を引く。
 合計4つの銃弾が、九重の四肢に撃ち込まれた。

 (何故だ?何故だ横井?お前の望み通りに俺は動いたんだぞ?友達だって・・・友達だって言うお前の指示通りにやった・・・俺も、俺も佐々木と藤沢達と同じだって言うのか??佐々木達と同じ?)

 車にもたれ座りこむ格好になった九重は、手足をまったく動かせない状態だった。
 銃弾は、手足の付け根に撃たれていた。

 「出血多量で死ぬまでには2時間ぐらいかかる。止血しようにも手が使えない。苦しいね2時間」

 横井は笑顔のまま、言葉を続ける。

 「頑張って助けを求めるなら助かるかもしれない。でも諦めたら死んじゃうよ」

 少し、表情が変わる。

 「どうするかは自分で決めるんだな」

 九重の叫び声が響く。横井がナイフを突きたてていた。
 とどめを刺したわけではない。
 出血を誘う一刺し。

 (とどめを刺さずに俺を殺すのか?横井にとって、俺も佐々木達と同じ・・・佐々木達の事も、殺す・の・・か?)

 九重の意識が遠のき、目が霞む。
 横井の笑顔がぼやける。
 凶悪な狂喜の笑顔が、寂しそうに歪んで見えた。

 九重は遠のく意識の中で、横井が去っていく気配を感じた。

 (このまま、ここで死ぬのか?ここで死んだら・・・楽に・・・)

 誰かの足音で、九重の意識が戻る。
 だが、体は動かない。目も開ける事が出来ない。
 再び、銃声が響く。
 九重の目の前に居る人物が、銃声に振り向き、駆けて行く。

 やっと、薄く目を開く事が出来た九重は、校舎へ走る佐々木の姿を捉えた。

 (佐々木!?待ってくれ!俺は、俺はまだ生きている!戻っちゃダメだ・・・)

 九重の指が微かに動いた。

 (待ってくれ、助けてくれ、助けて・・・)

 九重は前方に倒れ込んだ。激痛が走る。

 (助けを・・・)

 九重は動かない手足の代わりに、肩をくねらせ、ゆっくりと校舎へ向かい這う。

 (助け・・・)

 朦朧としながら、ゆっくりゆっくり這って行く。
 九重の耳に聞こえるのは、自分の血流音と弱まる鼓動。
 どこか遠くから銃声が聞こえる気がした・・・。

 (助け・・・。俺は、何故こんな事をしているのだろう・・・。助け?こんな姿で助かるのか?・・・)

 何の為に這っているのか、九重は解からなくなっていく。

 (助け・・・、そうだ、助けを呼ばなきゃ・・・誰を助けるんだ?)

 九重は、最後に見た横井の笑顔を思い出した。
 寂しげに歪む、横井の笑顔。
 その笑顔は、11歳の横井に変わっていく。

 (そうだ、横井を、助けなきゃ。ごめんよ、俺も悪かったよ、横井・・・。今、助けに行く。もう、熊沢に虐めさせない・・・よ・・・)

終り

あとがき

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